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東京地方裁判所 昭和46年(行ク)52号 決定 1971年11月19日

申立人 佐藤戦争内閣を倒し米軍にインドシナからの即時撤退を求める七一年一〇月市民行動

被申立人 東京都公安委員会

主文

本件申立てを却下する。

申立費用は申立人の負担とする。

理由

本件申立ての趣旨および理由は、別紙一記載のとおりであり、これに対する被申立人の意見は、別紙二記載のとおりである。

よつて判断するに、疎明を総合すると、次の各事実が認められる。

(一)  申立人が許可申請者となつて本件集団示威運動を行なおうとしている昭和四六年一一月一九日には、合計六一件(いずれも申請どおりの進路によることが許可されている。)に及ぶ集団示威運動が都内において行なわれることとなつており、しかも、一一・一九全国統一行動中央大集会実行委員会が一二万五、〇〇〇名の参加予定のもとに行なおうとしている集会・デモをはじめ、そのほとんどが、沖繩返還協定の批准反対をスローガンに掲げ、国会への請願ないし抗議の意思表示をなさんとして国会を中心に都心部において行なわれるもので、現下の政治情勢から見て、かなり過熱した行動に出ることが予測される。

(二)  全国県反戦、東京入管闘、関東叛軍等が主催して日比谷公園において行なおうとしている協定批准実力阻止総決起大会およびその後同所から虎ノ門・西新橋を経て常盤公園に至るデモ行進については、前者のみ許可され、後者は不許可となつている。しかし、一般に中核系とよばれるこれら主催団体が動員を予定している者(予定人数七、〇〇〇名)については、当日の行動によつて首都暴動・国会爆砕を呼号しているこれらの団体の宣伝活動や最近の一一月一四日における渋谷地区その他の違法行為に徴しても、不許可にかかわらず予定したデモを強行し、あるいはいくつかの小集団となつて霞が関、国会周辺一帯や銀座方面にゲリラ的に出没し、火焔瓶や手製爆弾の投擲を伴う人命をも危うくするような過激行動に出ることを充分に予想される事態にあり、そしてその行動が他の団体による集団行動や一般大衆を捲き込み利用する形で行なわれるため、警備が著しく困難になると思われる。

(三)  本件申立人が許可を申請した集団示威運動の主体となるものは、いわゆる「べ平連」運動を共通の目的として組織された多数の団体(以下単に「べ平連」と呼ぶ。)であるが、べ平連の主催下に過去に行なわれた本件と同種の集団示威運動においては、ややもすれば、平穏な示威運動の範囲を逸脱し、しばしばジグザグデモ、路上座り込みによる交通渋滞を来たしたばかりでなく、路上にバリケードを築いてこれに放火したり、警備の警察官や交番に向けて火焔瓶や石を投げつける等の違法な過激行動が、示威運動自体の中で、あるいはこれに接着して行なわれた例が二・三にとどまらない。べ平連自体は市民的平和運動を標榜しているけれども、右のような過去の経歴(この中には、前記(二)に掲げた諸団体と集団示威運動を共同主催した例も幾度かある。)は、前記のような過激行動に走る要素が同団体自体に内在しているか、少なくともかかる過激行動分子の行動参加の排斥に意を用いようとしない同団体の性質を推認させるものといつても過言ではなく、かかる過激分子の跳梁に対する同団体の放任的態度は、申立人側の疎明によつてすら、うかがえるところである。

以上のような事実関係を総合すると、申立人の許可申請にかかる本件集団示威運動の経路をそのまま認めようとする場合には、この運動が過激な違法行為を誘発し、またはこれに影響されあるいは利用されるおそれが少なくない。とくに、国会の近接地域においては、同日の集団行動の多くが国会を目的とするものであること、また、四万五〇〇〇人もの多人数による請願のための集団と時間的に重なりあい、一方国会爆砕を叫ぶ前記(二)の集団によるゲリラ的行動も予想されうること等にかんがみ、さらに西新橋から外堀通を経て国労会館に至る経路については、べ平連自体の同じコースにおけるデモでも過去に数度におよび違法事態を招来しているのみならず、前記(二)の集団による示威運動も、接近した時間に予定されていたので、被申立人の不許可にもかかわらず、このコースないしコース中の交通の輻湊する地点においてこれら集団による違法な行動が行なわれることも充分に予想されることに徴し、いずれも公共の秩序を保持するためやむをえない措置として、被申立人のしたような進路の変更を条件として付されてもやむをえない事情にあるものというに難くなく、この進路変更の条件を付した処分の執行を停止するときは、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるものといわざるをえない。

よつて、本件執行停止の申立ては、行訴法二五条三項により却下を免かれず、申立費用の負担につき同法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 横山長 南新吾 竹田穣)

別紙一

執行停止申立書

申立の趣旨

一、被申立人が、申立人の昭和四六年一一月一七日付集会集団示威運動許可申請について、同年同月一八日付でなした許可に付せられた条件の中、清水谷公園―赤坂見付交差点―山王下交差点―溜池交差点左―三年町交差点―大蔵省上交差点右―霞が関二丁目交差点右―虎の門交差点左―西新橋交差点左―内幸町交差点左―日比谷公園中幸町内(解散地)と進路を変更する旨の処分の効力はこれを停止する。

二、申立費用は被申立人の負担とする

との裁判を求める。

申立の理由

一、申立人は昭和四六年十一月十六日疎甲第一号証記載の通り、被申立人に対し同月十九日開催予定として集会場所清水谷公園、解散場所国労会館前とする集会並びに集団示威運動の許可申請をなしたところ、被申立人は疎甲第一号証記載の通り、集団示威運動の進路について清水谷公園―赤坂見付交差点―山王下交差点―溜池交差点―三年町交差点―大蔵省上交差点右―霞が関二丁目交差点右―虎の門交差点左―西新橋交差点左―内幸町交差点左―日比谷公園中幸門内(解散地)とする進路の変更の処分をなした。

二、申立人が代表する「佐藤戦争内閣を倒し米軍にインドシナからの即時撤退を求める七一年十月市民行動」は別紙目録記載の市民団体、文化団体によつて構成され、インドシナにおけるアメリカ合衆国の戦争続行に反対し米軍の即時撤退を求め、言わゆる「沖繩返還協定」批准に反対し、批准強行を行なつている佐藤戦争内閣を倒すことを目的とし、そのため、参加する者の政治イデオロギーの違いに拘泥せず、その目的の下になんらかの行動をしたいと思う者を広く結集し、その参加者のとりうる行動方式を認め、多様な行動様式の下に、本年一〇月二一日、一一月一四日における集会、集団示威運動などの反戦、平和運動を推し進めてきた。

前記の通り被申立人に対し申請した集会、集団示威運動は、現在国会において審議中である、言わゆる「沖繩返還協定」の批准に反対し更に強行採決が行なわれることに対して抗議の意志を表明するとの一定の政治的主張を憲法第二一条によつて保障されている集会、集団示威運動によつて表明しようとするものである。

三、(一) 集会・結社及び言論・出版その他一切の表現の自由は、憲法が国民に保障する基本的人権で侵すことのできない永久の権利である(憲法二一条、一一条)と同時に、表現の自由は、人権保障の構造体系の中でも優れて重要な地位を占めるものである。

蓋し、近代民主制国家において表現の自由は、政治的、思想的意見を自由に表明、交換することによつて社会の発展が可能となるという必須の条件であり、憲法の保障するすべての自由の母体であるとさえいわれている。

現代社会において大部分の民衆にとつて印刷(新聞雑誌等)、電波(テレビ、ラジオ等)など大規模かつ最も有効な思想伝達の手段であるマスコミユニケーシヨンが、実際上ほとんどこれを駆使することができず、従つてこれらの者にとつては自らの思想を主体的に表明する手段として集会等の集団的行動が極めて、ほとんど唯一ともいうべき、重要な役割を果すものとなつている。(同旨、京都地判昭四二・二・二三)

さらに現代における表現の自由の意義は、国民主権のもとに、主権者たる国民が、公務員に対し、主権者として自己の意見を表明し、これを国政に反映させるという参政権としての側面をもつものであり、それは表現の自由を自由権として国家からの自由と考える以上に、政治的権利として、統治過程そのものの中枢にすえて考察することである。

すなわち、主権者としての国民は、自らが統治過程に参加し、みずからの手で統治する憲法上の権限を有し、他のなんびとでもない国民じしんが、統治過程において国家のとるべき方策が賢明であるか、公平であるか、社会に対し危険であるかなどの諸点を判断し決定しなければならない。こういう地位にある国民が問われている争点の判断にふさわしい資料、すなわち情報、意見、疑問点、不信な点、反対論などいつさいの素材に接することにこと欠けば、その不十分さに比例して、国民の決定結果は社会全体の利益のために、不完全かつ不均衡なものとなつてしまう。それはとりもなおさず、国民としての憲法上の権限をきちんと行使していないことになつてしまう。そのゆえに、国民じしんが損失をおわねばならない。

表現の自由は、選挙権を補う参政権としての意味をもつばかりでなく、すぐれて政治的な権利として国民が統治過程そのものに参加するという直接民主主義にその基礎をおくものである。

例えば、公害問題が政治問題化している現在、公害による被害を受け、又はその被害をおわされようとしている市民たちが、自発的、自立的市民運動の中で、その意思を国、地方自治体又は企業に反映させようとする行動は、それが単に選挙権の補完物としてあるのではなく、政治過程そのものへ自己の意思を反映させる行動として、存在すると考えるべきであろう。

(二) 表現の自由は精神的、さらには政治的権利の内容性において絶対無制約な権利であると考えられるが、仮りに表現の自由が制約できるとしても、それは、前述した趣旨から、最少限度のものでなければならず、その原理は、(判例のいう公共の福祉の内容ということになる)以下のように理解されなければならない。

国民相互間の基本的人権が抵触することはあり得るし、そのために人権相互間の抵触を調整するなんらかの原理が考えられなければならず、これが公共の福祉という概念の内容である。

すなわち、公共の福祉はそれ自体が一定の実体概念として国民の基本的人権一般に対立するものではなく、社会の円滑な維持の立場から基本的人権行使のレベルで調整的にのみ働く一つの機能的上位概念たるものである。従つて、その性質上この概念が機能する範囲は当然その本来の調整の範囲に限られなければならず、当然またその限界は具体的かつ明確でなければならない。

表現の自由がすぐれて社会的なものであつて、それゆえ、他の人権と衝突が考えられるとしても、表現行為としてのデモ行進が、申立人以外の国民の基本的人権の行使に具体的に抵触することがその判断の時点において明白に認められる場合に限つて公共の福祉による制約が許されるにすぎない。

そして、たとえ制約が認容されるとしても、制約される権利の重要性にかんがみ、真に必要にして最小限度のものでなければならず、権力が恣意的に制限するようなことがあつてはならない。

(三) 最高裁判所(昭二九・一一・二四最高刑集八―一一―一八六六)はデモ行進等の集団行動について「一般的許可性をとつてこれを事前に抑制することは憲法の趣旨から許されないが」として一般原則をたてる一方、本件処分の根拠法規たる都公安条例(昭二五・七・三条例四四号、改正施行昭二九・七・一)については、実質的には届出制と異ならないとして之を合憲としている(最判昭三五・七・二〇)。しかしこれはあまりにも法の運用の実態から離れた実情を知らぬ判断であることは東京地裁昭和四二年五月一〇日判決が明らかにしている。

現実には警視庁警備第一課において法律上の申請以前に「事前交渉」と称して許可、不許可、コースの変更(実質的には不許可と同じ)の扱いがなされている。(この点については法律時報一〇月号臨時増刊、公安条例二七一以下参照)。

都公安条例は昭和三五年七月二〇日最高裁判決がいうような、届出制をとつているものではなく、あきらかに許可制をとつており、さらに、その内容そのものが不明確なものであつて違憲のものである。

さらに運用上も、都公安委員会が警備の都合等の理由で安易に許可、不許可、コースの変更をしており、右都公安条例は運用上からいつても違憲の疑いが極めて顕著である。

申立人はこれを別としても、なお本件処分が都公安条例そのものにも違反していると考える。

(四) 都公安委員会は国会の周辺、あるいは国会付近の道路に関して本件申請においても、路線変更の処分をなしたが、右処分は、明らかに違憲違法である。

1、第一に都公安委員会が、国会周辺、あるいは国会付近の道路に関して路線変更の処分を都公安条例三条但書六号によつてなしているが、右処分は実質的にデモ行進等を不許可にする処分であつて、そうであれば同法三条但書で許されるデモ行進等に関し付与されることを許される必要な条件とはもはや考えることはできない、同条例第三条本文によつて、デモ行進等の集団行動を不許可とすることができる場合として「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」と規定されているにもかかわらず路線変更、すなわち実質的なデモの不許可が第三条本文よりはるかに容易に第三条但書六号によつて可能となるという不合理が存在する。又、右条項によつても、一般的に国会周辺のデモを禁止することはできない。

2、仮りに右路線変更の処分が許されるとしてもそれはデモ行進を申立人の申請どおり許可することが、公共の安全にとつて明らかに差し迫つた現存在の危険があるばあいでなければならない。

表現の自由が民主制国家において必要不可欠な権利であり、現代それが参政権として一種の政治的権利としての機能をはたしている現実を考察すれば、国政を二分するような政治的問題について、国民が集団的意思を表明するために憲法二一条にもとづき、デモ行進等をすることは、むしろ民主主義の発展にとつて望ましいことである。そのような意味においても、集団的意思を国会に反映させるために、国会の周辺等をデモ行進することが必要なのであり権力をもたない者にとつて現在の時点で、政治に参加する、それが唯一の方法である。

申請人がデモ行進をして、自己の意思を表現するには、如何なるコースを通るかが極めて重要であり、表現の自由としてのデモ行進の本質的要素となる。

だからデモ行進ができればよいとの容易な思想のもとにコースを変更することは許されずコース変更は申請人にとつて不許可に等しいのである。

だから、右のデモ行進等の集団行動について路線変更の処分をするには、「国会の審議権の行使の公正を確保する」というような抽象的かつ一般的な基準で、いわゆる警備上の必要性のもとに行うことは明らかに違憲、違法であるといわざるを得ない。

本件の国会周辺のデモ行進につき路線変更をするためには国会の審議権の公正が妨害されるという明白かつ現在的な危険がなければならないのである。

申請人のデモ行進には右の事由など存在しないことは明らかである。

四、申請人には回復困難な損害を避けるため緊急の必要性が存在する。

本件集団行動の実施日は一一月一九日であり、このまま本訴訴訟の結論をまつていたのでは、申請人は所期のデモ行進を実施することが不可能となり、その目的からいつても回復し難い損害をこうむることは明らかである。

そこで申請人は本執行停止に及んだものである。

別紙二

意見書

意見の趣旨

本件申立てを却下する。

申立費用は申立人の負担とする。

との裁判を求める。

意見の理由

第一はじめに

申立人が本件申立ての理由とするところは、本件条件付許可処分は一部不許可処分にほかならないから、集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(昭和二五年七月三日東京都条例第四四号、以下条例という。)第三条本文の基準にあたらず違法であるというものの如くである。

しかしながら本件処分は、条例第三条但し書による条件を付した許可処分で、一部不許可処分ではないのである。かかる処分について申立人のように条例第三条本文にいう「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」を基準として事を論ずる者もあるが、これは法文上明白である不許可の場合の要件を無理に条件付与の場合にまで拡張するもので明らかに誤りである。

すなわち、条例第三条但し書によつて付与される条件は、集団行動による表現の自由とこれによつて直接侵害の危険にさらされる反対利益との矛盾、衝突を調整する手段として機能し、集団行動があるべき姿である平穏裡に秩序を保つて行なわれることの担保として付与されるものであることから考えれば、条件付与は、相手方委員会が地方的情況その他諸般の事情を十分に考慮し、公共の安寧に対する危険の発生が明らかに認められる場合はもちろん、このような危険発生のおそれのある場合にも、またその予防のためにも条件を付し得ると解するのが正当である。

そして相手方委員会は、集団行動の許可申請後僅々四八時間程度の短時間のうちに、諸般の情報、証拠を収集、分折し、相手方委員会にとつては多年の経験から顕著な事がらをも合わせて、申請にかかる集団行動のもたらす危険の発生を予測するのであつて、この場合、危険の発生のおそれがあれば、これを予防するに必要な条件を付して許可することとなるが、この条件付与の判断は、治安維持の責任を負う相手方委員会が経験に基づき、その責任においてなす裁量行為であつて事柄の性質上司法的判断に親しみ難いところがある。御庁においては、この点につき御留意のうえ「予想される危険をどうして少なくするかという立場」(疎乙第二九号証)に立つて以下述べる事項につき公正に御判断されることを望むものである。

第二本件申立てにかかる処分手続の経過

申立人佐藤戦争内閣を倒し米軍にインドシナからの即時撤退を求める七一年十月市民行動代表福富節男の代理人吉川勇一は、昭和四六年一一月一六日午後五時三〇分相手方委員会に対して、申立人が主催者となつて一一月一九日に行なう集会および集団示威運動の許可を申請した。

そこで相手方委員会は、同月一八日午前一〇時五〇分から委員長阿部賢一、委員鵜飼信成、委員今泉孝太郎、が出席して臨時委員会を開き、右申請にかかる集会、集団示威運動の許否を議したが、右申請にかかる集会、集団示威運動を申請どうり許可するときは、後述のとおり公共の秩序を保持することができないと認め、やむを得ざる措置として、第三条第一項但し書に基づき必要な条件を付して許可することとし、この旨を同月一八日午後三時三五分警視庁麹町警察署警備課警部補倉川潤をして申立人の代理人佐野彰治に示達した。

第三申立人の申請にかかる集団示威運動の行進順路を変更する条件を付した理由

一 沖繩返還批准国会の議事予定

昭和四六年一〇月一六日召集された第六七回臨時国会は、六月一七日調印された琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定締結について承認を求めるの件を案件とするいわゆる沖繩返還協定批准国会として内外朝野の注目を浴びているが、一一月一九日には、衆、参両院において右沖繩返還協定のほか、沖繩の復帰に伴う特別措置に関する法律案、沖繩の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律案、沖繩振興開発特別措置法案などの審議に関する本会議、委員会が予定されているところである。

二 沖繩問題をめぐる極左暴力集団の動向

(一) 昭和四五年の日米安全保障条約の再検討期を前にして、過激派学生と呼ばれる極左暴力集団は「七〇年闘争」を叫び、一般学生、青年労働者現状不満層を触発して、革命的な情勢をつくり出すことを目論み、全国各地で過激な行動を繰り返した。

そしてこれら「暴力集団」はいままた、「沖繩返還協定」の“批准絶対阻止”を合い言葉に「七〇年闘争」を上回る闘争を繰り広げて、革命的な情勢をつくりだそうとして取締りの網をくぐつて「奇襲行動」や、別紙「手づくり爆弾」の使用状況表所載のとおり、爆発物などの凶器を使用しての悪質な暴力的破壊行動を繰り返し、騒然たる社会情勢をひき起すことに狂奔し(疎乙第二七号証)、さきの新東京国際空港用地に対する第二次執行をめぐる反対闘争における方法に見られるように、これらの集団は、土地の収用に反対する農民の運動に便乗して、残酷な殺人行為まで行なうに至つたのであるが、彼らは、沖繩返還を“アメリカ帝国主義に肩代わりした日本帝国主義の沖繩進出”ときめつけ、「批准阻止闘争」を七〇年代の革命をきりひらく端緒として、爆弾使用など凶悪のエスカレートによる「恒常的武装闘争」の展開を叫び、この闘争のヤマ場においては、その影響下にある学生や反戦労働者を全国各地から“根こそぎ”動員し、国会や首相官邸、米国大使館などに向けた独自の大規模なデモを起こし、あるいは、社会党、総評等の行なう大衆行動の場を利用して(介入参加)、国会、霞が関または繁華街にいわゆる“解放区”を設けることとし、こうしたヤマ場の前後に政府機関、外国公館、警察施設や主要駅などに対して奇襲攻撃をしかけることを基本方針として計画しているのである(疎乙第三一号証)。

(二) 極左暴力集団の行動傾向

極左暴力集団の各セクトは、俗に五流二一派と言われるが(疎乙第二六号証)、これらは公知のとおりいわゆる内ゲバを繰り返しながらも沖繩デー、国際反戦デーその他重要な闘争設定時にはそれぞれ主導権を争いつつ同時多発の激しい闘争を敢行している。

すなわちその行動傾向は、昭和四二年の羽田事件や佐世保、成田、王子の各闘争当時は警察部隊に対して真面正から攻撃をしかけたが、その後、こうした攻撃がむずかしくなると、分散、奇襲、陽動のゲリラ的行動に変わり、さらにこの「ゲリラ」は、新宿騒擾事件(昭四三、一〇、二一)のように人の密集するターミナル駅や目抜き通りで、市民を巻き込みながら警察部隊に攻撃をしかけるというものから、さらに、一昨年の「一〇、二一国際反戦デー」「佐藤総理訪米阻止闘争」などのように「無差別ゲリラ」となつて、東京築地の中央市場や映画館なども火炎びんで襲う(昭四四、一〇、二一)という、だれかれの見さかいのない過激な行動をとるに至つた後、大菩薩峠事件(昭四四、一一、五)、ハイジヤツク(昭四五、三、三一)、交番襲撃事件(昭四五、一二、一八)、銃砲店襲撃事件、現金強奪事件をひき起こし、世間からも見離されて孤立化するとともに、その手口と行動の重点を“凶悪なゲリラ”“テロ”へと移行していることは公知のとおりである。

そして彼らは

1 行動設定には必ず同時多発のゲリラ活動を行ない

2 その活動には繁華街の雑踏、大衆行動の混雑を利用して、一般市民、労組員等を巻き込み

3 自動車、自転車、看板等を用いて路上にバリケードを築き(解放区設定)、

4 火炎びんを主武器として、無差別に放火し、

5 多数の機動隊員を殺傷し、これを戦果として称揚

するなど、最近では表現の自由とは全く関わりのない犯罪行為を集団的に繰り返えしている有様である(疎乙第二六、二七号証)。

(三) 極左暴力集団の本件集団行動当日の行動計画

ところで極左暴力集団は、本件集団行動当日を含む一一月一〇日から同一九日までの間を「一一、一〇―一九闘争」あるいは一一月二二日ごろまでを「一一月連続大戦闘」として沖繩国会を過激な行動により粉砕するための行動期間として設定している(疎乙第二一、二二、三一号証)。

そして、首都制圧、国会構内人民集会―首相官邸占拠を呼びかけ、放火、殺人等のゲリラ活動を重層的に展開することを目論み、一一月一四日渋谷において新潟県警察の中村恒雄巡査を殺したことを勝利であると自賛し、一一月一九日には、日比谷においてこれをさらに上回る暴動を計画し、呼びかけているのであるが、結果の発生は別として、彼らがこれを強行することは実証的に明らかである(疎乙第一八、一九、二一、二二、三二号証)。

三 主催団体の性格および行動傾向

申立人は、ベトナムに平和を! 市民連合、声なき声の会、ベトナム反戦ちようちんデモの会、大泉市民の集い、新宿べ平連、葛飾べ平連等が昭和四六年八月ごろ結成した団体であるが、その組織母体は「インドシナ反戦のための春季総反攻市民委員会」(昭和四三年三月から同年八月まで存続)であり、この委員会の母体は、「インドシナ反戦と反安保のための六月行動委員会」(昭和四五年五月から同四六年三月まで存続、略称新六行委)であり、新六行委の母体は、「ベトナム反戦のための六月行動委員会」である。そして、この団体の中心となつているのは通じて「ベトナムに平和を! 市民連合(略称べ平連)」なのである(疎乙第一乃至四号証)。

ところで右べ平連は、「規約があり、入会申込書や会員制度あるいは会費がある団体ではないのです。べ平連の集会に来る人、デモに参加する人、カンパする人、そういう人すべてが“べ平連”なのです。」(べ平連パンフ)というように元来誰でも参加できる大衆行動の場を提供することを運動の本旨とし、直接行動することを本質としている団体であるためアナーキストや反代々木系学生集団の過激学生等が参加し、その運営についての主導権をにぎるようになり、その行動も当初標ぼうした非暴力デモから次第に発展してゆき極左暴力学生集団との共同戦線を指向するようになつた(疎乙第五号証)。

そして、その行動形態は、昭和四三年四月ごろからそのときどきの政治課題について実行委員会方式によつて大衆行動を組織する形態をとり、行動は左記事例に見られるとおり、誰でも参加させ極左暴力集団の過激行動に加担したり助勢したりして秩序を乱す傾向にある。

事例

(1) 昭和四四年四月二八日の4・28沖繩デーに五四団体三、九二〇名(申請一五〇名)を集めて、常盤橋公園で集会し、土橋まで集団示威運動を行なつたが、その後尾梯団は鍜治橋付近で折から銀座方面から移動してきた極左暴力集団(中核が主体)に合流し、ともに投石を反覆し、中央警察署鍜治橋派出所に放火してこれを全焼させた(疎乙第一四号証)。

(2) 昭和四四年六月二八日べ平連は、ヤングべ平連を主体とした反戦フオーク集団(東京フオークゲリラと命名)を編成し、“新宿地下広場を人民の手に”そして若者の広場に”をスローガンに新宿駅西口で無許可の集会、集団示威運動を行ない四号線上にバリケードを構築し、淀橋警察署新宿駅西口派出所に投石して、これを破壊するなどの暴行を慾しいままにした(疎乙第一〇、一五号証)。

(3) 昭和四四年一〇月一〇日べ平連は、革マル全学連を含む極左暴力集団と共催し、明治公園において三九〇団体二一、八五〇名(申請三五、〇〇〇名)を集めて「ベトナム反戦、安保粉砕沖繩闘争勝利、佐藤訪米阻止、羽田闘争二周年10・10統一集会」を開催し、日比谷公園まで集団示威運動を行なつたが、大学べ平連を含めた反代々木系学生集団は青山口において機動隊に対し投石、投びんをしたが、解散地においては、火炎びん一〇本を投てきするなどの暴行を行ない、検挙者七七名を出した(疎乙第三三号証)。

(4) 昭和四四年一〇月二一日べ平連は、清水谷公園に九、五〇〇名(申請三、〇〇〇名)を集めて「10・21国際反戦デーべ平連集会」を開いたあと飯田橋まで集団示威運動を行なつたが、その一部は飯田橋五差路交さ点および国鉄中央線ガード下の二か所にバリケードを構築放火した(疎乙第一七号証)。

(5) 昭和四五年四月二八日沖繩行動デーには、六月行動委は、全国県反戦、全国全共闘と共催して、明治公園に一六、六〇〇名(内べ平連七、九〇〇名)を集めて「4・28沖繩闘争勝利安保粉砕大統一集会」を開催し、日比谷公園まで集団示威運動を行なつたが、青山口、日比谷公園付近で機動隊派出所に激しく投石し、一二九名が検挙された(疎乙第三四号証)。

(6) 昭和四五年六月一四日六月行動委は、全国全共闘、全国県反戦と共催して代々木公園B地区に三五、〇〇〇名(内べ平連一三、〇〇〇名)を集めて「インドシナ反戦、反安保、沖繩闘争のための6・14大共同行動集会」を開催し、日比谷公園まで集団示威運動を行なつたが、途中各所で激しい、ジグザグ、うず巻き、フランスデモを反覆し、一部のラジカル派は投石を行ない、日比谷付近では、火炎びんを含めて激しく投石し、二七〇名が検挙された(疎乙第三五号証)。

(7) 昭和四五年一一月二二日べ平連は、全共闘、全国県反戦、入管体制粉砕東京実行委と共催して「日米共同声明粉砕、七二年沖繩返還協定粉砕11・22労学市民総決起集会」を開き、芝公園二三号地まで集団示威運動を行なつたが、大学べ平連などのノンセクトラジカル派を含む学生集団は愛宕警察署御成門派出所を襲撃して破壊の上放火し、一五名が検挙された(疎乙第三六号証の一)。

(8) 昭和四六年四月二八日「インドシナ反戦のための春季反攻市民委員会」は、清水谷公園に一六〇団体三、七〇〇名(大学二、三〇〇、高校二〇〇、市民五五〇、その他六二〇)を集めて「4・28沖繩返還協定つぶせ東京集会」を開き、国労会館まで集団示威運動を行なつたが新橋ガード手前、ホテル日航前、数寄屋橋交さ点などで坐り込みを行ない銀座周辺の交通を完全にストツプさせた(疎乙第三六号証の二)。

(9) 昭和四六年六月一七日前記春季総反攻市民委員会は、坂本町公園に約二五〇〇名(申請一、〇〇〇名)を集めて「第三の琉球処分を許すな市民集会」を開き、日比谷公園まで集団示威運動を行なつたが、交通整理の警察官が、少ないのを奇貨とし、八重州通りでは、激しいジグザグ行進あるいはフランスデモを行ない、数寄屋橋交さ点では約三〇〇名が坐り込みを行ない、さらに同所から日比谷まで再び激しいジグザグ行進やフランスデモを敢行し、その中の黒ヘル集団は日比谷公園内の売店を破壊したうえ、これを日比谷通りへ持ち出し、同通り三か所にバリケードを構築して、これに火をつけ、駐車中の自動車を横転して放火し、火炎びん、石などを機動隊に投げ、六名が検挙された(疎乙第三七号証)。

(10) 昭和四六年六月二三日前記春季総反攻市民委員会は、坂本町公園に一、三〇〇名(申請一、〇〇〇名)を集めて「沖繩返還協定と日米安保条約をつぶせ市民集会」を開いたのち日比谷公園までの集団示威運動を行なつたが途中黒ヘル集団は強引にデモの先頭に出てジグザグ行進や、うず巻行進をリードし、呉服橋交さ点では約二、〇〇〇名が坐り込み間断なく爆竹を鳴らしキリン竿で突きかかつて、七名が検挙された(疎乙第一六、三八号証)。

(11) 昭和四六年一〇月二一日七一年十月市民行動は、坂本町公園に一〇六団体四、七〇〇名(大学三、〇〇〇、高校八〇〇、市民九〇〇=申請三、〇〇〇名)を集めて「沖繩返還協定つぶせ10・21市民集会」を開催し、土橋まで集団示威運動を行なつたが、これに参加した黒、赤、銀、白、緑、青、桃、茶のヘルメツトをかぶつた学生集団は土橋まで激しいジグザグやうず巻き行進を行ない、数寄屋橋交さ点付近では、坐り込みを行ない、さらに土橋、新橋大ガード付近の路上二か所にバリケードを構築火炎びんを投げて放火し、ついで築地警察署土橋派出所に投石し、これを破壊した(疎乙第三九号証)。

四 本件集団行動と他団体の行動

本件集団行動の行なわれる一一月一九日には、都内においては、国会情勢を反映して沖繩関係の集団行動六三件、申請人員一六四、二八〇名(集会のみは八件四、五八〇名)が催される予定である(疎乙第二三号証)。

また、極左暴力集団は、これら集団行動の交錯するところを彼等が介入し、日比谷暴動を起こす絶好の機会としてねらつていること前記二、記載のとおりである。

しかるところ申立人は、極左暴力集団と競合するコースにおいて集団示威運動を行なわんとするのであるが、べ平連は、それ自体無統制なグループの集りであるから、極左暴力集団の介入を許し、極左暴力集団の過激行動に加担、助勢し波乱を一層助長することは、べ平連の性格および過去の実例からも容易に推認できるのである。

五 本件集団行動と危険発生の蓋然性

そこで相手方委員会は、当日は、その管理する警察部隊に加え、近畿、中部、関東、東北の各管区警察局管内の府県警察から約四、〇〇〇名の警察官の派遺をうけて警備にあたらせることとしているのであるが、申立人は、右のような情況下に国会議事堂直近の道路を進路の一部とし、また、極左暴力集団が、集団行動(暴力)を計画する銀座地区の道路をこれと時刻をほぼ同じくして本件集団行動を行なわんとするのである(疎乙第一九号証)。

いうまでもなく国会は、国権の最高機関であり、ここにおいて国会議員、国務大臣等がいかなるものからも物理的圧力や心理的威迫その他の妨害等を受けることなく静穏な環境の中で国政を審議することの保障は、議会制民主主義国家における基本的な要請である。

そして、国会議事堂の周辺には、国会図書館、衆、参議員面会所、衆、参議院議長公邸、総理大臣官邸、総理府および政党本部等国政審議に必要な各機関、施設が存在し、国会開会中は、衆、参両院における本会議、委員会等における審議、その他各種折衝、連絡、打ち合わせ等のため、国会議事堂および関係施設へ国会議員、国務大臣、政府委員その他の国政審議関係者が出入往来するが、これら議員等の登退院、出入、往来の自由を確保することも国政審議権の公正な行使を確保する前提をなすものである。

しかして、相手方委員会の管理する警察は、国会周辺のみならず、都内各所において、極左暴力団体のゲリラ活動、テロ活動防圧のため身命を賭して寧日なき警戒と努力をしているが、(このため極左暴力集団の予期する結果は、発生していないが)極左暴力集団は、前述したように申立人の行なう集団行動を利用して日比谷大暴動を起こそうとしているのである(これが単なる可能性でなく蓋然性の高いことについては前述のとおり彼らの行動が元来密行性を持つものの機関誌、ビラで宣言した行動は、結果の如何にかかわらず必ず行なつている現実からも明らかである。)のであり、かかる状況下に、申立人は申立人自身が派生的トラブルの発生を期待して、暴力的違法行為を反ぷくして行なつたことのある団体や逮捕されることを期している旨を述べる者を参加させて、国会議事堂直近の道路を進路の一部として本件集団行動を行なわんとするので、このことが明らかに推認できる本件集団行動が申請どおり行なわれるときは、それ自体国会議員をはじめ国政関係者の登退院および関係施設への出入往来の自由を妨害し、国会周辺の静穏を著しく害して国政審議に悪影響を与えるばかりでなく、沖繩における「米軍犯罪糾弾11・10ゼネスト突入県民総決起大会」の刺激を受けて、騎虎の赴くところ国会突入、テロ行為等の重大な結果を生ずるおそれなしとしないのである。

また、本件集団行動の行なわれる当日も、銀座地区においては平穏な市民活動が行なわれることは公知のところである。

しかして右地区が、極左暴力集団の行動予定地域であることもまた前述のとおりである。かかるところに、極左暴力集団の過激行為に加担し助長したことあるべ平連の集団示威運動を申請どおり認めるときは、銀座地区にバリケードが構築され、放火その他の集団暴力が行なわれるであろうことは容易に推認できるのである。

そこで相手方委員会は、予測される危険の発生を防止するため必要最少限度の措置として申立人の行進路を変更したのである。

七 締語

およそ表現の自由が尊重さるべきことは論をまたない。本件処分によつて、申立人がある程度不利益を被ること、そのため申立人において不満を持つていることは十分理解し得ることである。

しかしながら相手方委員会は、本件処分による申立人の不利益と申請を容認することによる侵害法益とを比較衡量し、やむを得ざる措置として、進路における公共の秩序を保持するため申立人の申請した進路の一部を変更したのであるが、以上申し述べた次第で申立人の本件申立てを容認することは公共の福祉に重大な影響を及ぼすこと明らかであると考える。よつて本件申立ては却下さるべきと思料する。

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